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知ってるつもりで知らない!? バレエ『眠れる森の美女』本当の誕生秘話

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バレエ『眠れる森の美女』を作った本当の立役者

『眠れる森の美女』と言えば、バレエの名作。そして、振付をしたマリウス・プティパや音楽を作ったチャイコフスキーの名前は聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
実は、『眠れる森の美女』を作った人物がもう1人、むしろその人物が中心となってできたのがこのバレエ作品なのです。

彼の名前は、イワン・アレクサンドロヴィチ・フセヴォロジスキー。当時のロシアの帝室劇場ディレクター(総裁)だった人物です。

当時の劇場は、皇帝の個人的な資産で運用されていました。その劇場の総裁であるフセヴォロジスキーは大臣と同等くらいの高い地位の人物でした。彼が総裁になったのは、フランスにおけるロシアの外交使節として働いたあとで、とても影響力のあった人物だったそうです。

バレエ『眠りの森の美女』は、バレエダンサーでも振付家でも音楽家でもない、劇場の総裁であったフセヴォロジスキーが企画したバレエ作品だったのです。

 

時代の流れが『眠れる森の美女』を生んだ!?

実は、『眠れる森の美女』誕生の背景には、当時のロシアの社会情勢が強く影響していました。時代は、19世紀末まで遡ります。

皇帝は、アレクサンドル3世。当時の皇帝の影響力は絶大で、芸術の好みや検閲、装飾様式も皇帝の好みによって決められるような時代でした。
そんな皇帝の父親アレクサンドル2世が暗殺されたことにより、ロシア社会は保守的な反動勢力が盛り上がり、アレクサンドル3世も暗殺を恐れひっそりと家族だけで過ごすようになります。それに合わせて舞踏会やレセプションといった華やかな行事が行われなくなっても、劇場だけは皇帝一家の姿が見られる場所となり、自然と劇場が社交界の中心となって行きました。それほど、当時の劇場は重要な場所だったとも言えます。

そして、そんなふうに表に出ず、閉じられた世界で生活をしている皇帝を楽しませるためのバレエとして企画されたのが『眠れる森の美女』でした。
検閲が厳しい時代にも皇帝を賞賛するバレエであれば、検閲も緩くなり、制作費も十分に提供してもらえるという狙いもあったようです。『眠れる森の美女』の制作には、当時の軍艦2隻分のお金が使われたんだとか! 


そして、皇帝を楽しませるために、物語に出てくる妖精たちも当初は皇帝の生活の守り神のような意味を持っていたそうです。
カナリアの精は家の中を快適にしてくれる家を守る精、小麦粉の精は家をいつも食べ物でいっぱいにしてくれる妖精…。
このように、閉じられた世界で生きる皇帝の助け人のような存在となるように作られました。実際の舞台ではそのような意味を妖精たちが持つことはありませんでしたが、皇帝を元気づけるためのフセヴォロジスキーの想いがあったのでしょう。


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Mariinsky Production 1989 Mariinsky Orchestra and Ballet


フセヴォロジスキーだったから、フランスが選ばれた!?

眠れる森の美女の舞台は、皇帝を賞賛するためにふさわしいとフランスのルイ14世の時代が選ばれました。
フセヴォロジスキーは、ベルサイユの時代のような絶対君主制の絶頂期の堂々とした豪華な姿を見せたいと考えました。それは同時に、豪華な舞台芸術作品を作ることで、帝国を反映させる力が皇帝にはあることを賞賛しようとしたのです。

また当時、ロシアと同盟を結ぶのがフランスだけになる可能性があり、そのためフランスという国を劇場で見せることを考えたとも言われています。そもそもフセヴォロジスキーは、ロシアと共和制フランスとの間での経済・政治協定の条項を練っていた人物でもありました。
このような背景もあり、フランスを舞台にした作品が作られることになったのです。

 そして、実際に題材として選ばれたのが、ルイ14世の時代に編纂されたペローの童話『眠れる森の美女』でした。フセヴォロジスキーがフランスに精通した人物だったからこそ、この物語が生まれたのかもしれませんね。

 

歴史を変えた?  企画外!のバレエ作品作り

こうしてフセヴォロジスキーによって、バレエ『眠れる森の美女』の制作がスタートしました。
バレエの上演には、バレエマスターと作曲家が必要です。そこで、フセヴォロジスキーが選んだのが、当時ヨーロッパ最高のバレエ団を率いていたマリウス・プティバと作曲家のチャイコフスキーでした。

プティパは、当時作った作品が批判を受け、帝室劇場の契約を解消される危機に陥っていました。また、チャイコフスキーは彼が最初に作ったバレエ曲『白鳥の湖』がモスクワで成功しなかったため、バレエ音楽はもう書かないと決めていました(今ではバレエの代名詞とも言えるくらい有名ですが、チャイコフスキーの生前には高い評価を受けませんでした)。
そんな時に、2人ともフセヴォロジスキーからの依頼を受けたのです。

プティパは当時72歳とかなり高齢(!)のバレエマスターでしたが、フセヴォロジスキーはプティパがやるべきだと信じて依頼し、バレエ音楽を作ることに消極的だったチャイコフスキーはフセヴォロジスキーの書いた台本を読みその物語に感動し、バレエ音楽を作る決意しました。

当時のバレエ音楽は、単なる踊りの伴奏とみなされており単純な楽曲が多かったのですが、バレエ音楽の芸術的価値を高めたのがチャイコフスキーの作った『眠れる森の美女』でした。
当時、作曲家は振付師に従属する形で、振付師が必要な音や拍子、リズムなどを予め指示し、作曲家はそれに従って音楽を作っていました。しかも作曲後も現場でさらに修正を要求されることも珍しくはありませんでした。
プティパもフセヴォロジスキーの書いた台本を元に振り付けを一
から細かく組み立て、テンポや小節数などの詳細なプランをチャイコフスキーに渡し、それをチャイコフスキーが音楽にしていきました。

チャイコフスキーはプティパが望むように曲を作り上げただけでなく、バレエ史上初めてシンフォニー形式(オーケストラによって演奏される多楽章)でバレエ音楽を作りました。チャイコフスキーがバレエ音楽の価値を高めたからこそ、現代ではその抜粋がコンサートなどで頻繁に演奏されるようになったのです。

さらに当時の軍艦2隻分の制作費を使ったというだけあって、初演当時の『眠れる森の美女』は、男女550人ずつの登場人物を使い、豪華な衣装、大規模な舞台装置を用いた贅を極めた作品でした。そう、なぜなら皇帝を賞賛するための物語でもあったからですね。
一方で、上演には莫大な制作費が必要なため、20世紀まで完全復元での上演は行われませんでした。

4Mariinsky Production 1989 Mariinsky Orchestra and Ballet 舞台奥にあるのはなんと本物の噴水。


こうして、『眠れる森の美女』はフセヴォロジスキーの強い想いのもと、プティパとチャイコフスキー、フセヴォロジスキーの共同作業によって作られたそれまでにないバレエ作品だったのです。

こうして誕生した『眠れる森の美女』は、現在では新しい演出で上演されるようになりましたが、120年に渡り観る者を楽しませるバレエの名作として多くの人に愛され続けています。

 

 

1989年 マリインスキー劇場バレエ団 眠れる森の美女より

 

〈参照〉
Russian ballet http://www.geocities.jp/ttpballet/lecture/sleep.html
聖光学院管弦楽団 http://seiko-phil.org/2013/03/21/182631/

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date : 2017.08.08
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